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文化/観光

歴史的人物

丹斎申采浩

丹斎申采浩

沿革

丹斎申采浩先生は保閒斎申叔舟の18代孫で、高宗17年(1880)12月8日市中区於南洞233番地で父光植と母密陽朴氏の間に次男として生まれました。

本来、忠清北道清原郡浪城地方に高霊申氏が長い間暮らしてきましたが、父が母方の安東権氏の墓幕に引っ越してそこで丹斎申采浩先生が生まれました。

ここは桃林洞(別名ドリミ)をはじめとする三つの村が合わさって於南里を成している所です。大芚山が逆に伸びて大田の宝文山に至る険しい山脈が続く所に位置するこの村は、今も民家が数軒しかない人里離れた谷の村です。墓幕だった生家があるところは、形が鳥の巣のように深い山里であじかのような形をしているので鳳巣谷とも呼ばれます。

丹斎申采浩先生の生家
  • 丹斎申采浩先生の生家1
  • 丹斎申采浩先生の生家
  • 丹斎申采浩先生の生家
  • 丹斎申采浩先生の生家4

丹斎申采浩先生の一生

1898年成均館に入学するために上京した後、言論人として独立運動家として歴史家として文人として波瀾万丈な人生を生きました。1905年皇城新聞に論説を掲載し始めた丹斎先生は大韓毎日申報に「日本の三大忠奴」「今日の大韓国民の目的地」「韓国自治制体の略史」「韓日合併論者に告ぐ」などの時論と「読史新論」「水軍第一の偉人李舜臣伝」などの歴史関係の論文などを発表しました。

丹斎先生は梁起鐸、李東寧、李会栄、李東輝、安昌浩など抗日秘密結社である新民会の組織に参加し、国債報償運動にも積極的に加担しました。

1910年、中国に亡命した丹斎先生は尹世復、李東輝、李甲などと光復会を組織し、満州で生活しながら「朝鮮史」を執筆しました。1919年、上海臨時政府樹立に参加した丹斎は臨時議政院議員として活動し、1922年には義烈団長金元鳳の招請で上海に行き、23年朝鮮革命宣言と呼ばれる義烈団の宣言を執筆、発表しました。1920年代は丹斎の歴史的力量が最も大きく発揮された時期で、この時期に「朝鮮上古史」「朝鮮上古文化史」「朝鮮史研究草」などを執筆しました。

丹斎先生は1928年5月に台湾で逮捕され、大連地方裁判所で10年刑を宣告され、旅順監獄に移監、服役中に1936年2月21日、57歳で脳出血で獄中殉国しました。遺体は忠北清原郡琅城面帰来里に安置され、1962年3月1日、大韓民国功労勲章の複章が授与されました。